これからの暮らしに、そして商業施設にウェルビーイングの視点を<前編>
―渡邊淳司氏(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)×松本阿礼・石田真理子(ジェイアール東日本企画)―

未来の商業施設ラボ VOL.11

商業施設の「買い物の場」としての価値が揺らぐ中で、生活者の視点に立った「理想の商業施設像」を考える、「未来の商業施設ラボ」。本連載では、当ラボメンバーによる、識者へのインタビューをお届けしています。今回のゲストは、近年注目を集める「ウェルビーイング」について研究されている、渡邊淳司さんです。ウェルビーイングとはどういうものか、暮らしにウェルビーイングをもたらすために商業施設が果たすべき役割などについて、お話を伺いました。今回はその前編です。

近年注目されるウェルビーイング

松本:最初にウェルビーイングの定義について教えていただけますでしょうか。

渡邊:ウェルビーイングとは、一言で言えば、身体的にも、精神的にも、社会的にも良い状態であることです。工学的な視点からは大まかに3つの分類があります。1つ目の分類は「医学的ウェルビーイング」=病気やけががなく、心身の機能が不全でないこと。2つ目は「快楽主義的ウェルビーイング」=良い気分であること。これは例えば目の前に楽しいことがあって気分が良いといった状態で、一時的かつ主観的なものです。3つ目は「持続的ウェルビーイング」=心身の潜在能力を発揮し、周囲との関係の中で意義を感じていること。自身と家族、会社、地域コミュニティなど、人との関係性の中でいきいきと活動している状態です。

持続的ウェルビーイングは、快楽主義的ウェルビーイングよりも長い時間軸で、その人の状態を総合的に捉えます。例えば、目の前の課題に苦しんでいるときは快楽主義的ウェルビーイングが阻害されている状態ですが、それは一時的なもので、課題を乗り越えて達成感や自己効力感が得られれば、持続的ウェルビーイングは充足されます。近年、ウェルビーイングなオフィス、ウェルビーイングな働き方といった意味で使われる「ウェルビーイング」はこの持続的ウェルビーイングのことで、これをどのように実現していくのか、さまざまな分野で注目されています。

石田:渡邊さんはなぜウェルビーイングの研究を始められたのでしょう。

渡邊:私は大学院時代、VR(バーチャル・リアリティー)の研究室に所属し、人間の知覚の研究をしていました。卒業後、特に、触れる感覚、触覚の研究に注力するようになり、触覚の知覚メカニズムの解明や触覚の提示技術の開発に携わるようになりました。触覚は人の情動や行動に強い影響を与えるという特徴がありますが、そこで、触れることで人がどういう実感を得ることができるのか、触れることを通して人と人とのコミュニケーションがどのように変化するのか、というようなことにとても強い興味を持つようになりました。

さらに研究を進めるうちに、触覚を通じて最終的にどのような人の心の動きや状態を目指すべきなのかを考えるようになり、ウェルビーイングという概念について意識するようになりました。

経済指標以外の、新たな“ものさし”

松本:渡邊さんはウェルビーイングに関する書籍にも多く携わっておられますが、近年、ウェルビーイングが注目されている背景についてどうお考えでしょうか。

渡邊:ウェルビーイングの概念自体は、ギリシャ哲学の時代から探求されている古いテーマですが、最近、工学やユーザーインタフェース設計、プロダクトデザインといった、モノをつくる側の人たちがウェルビーイングについて興味を持ち始めたというのが、近年注目されるようになった一因だと考えられます。

私がドミニク・チェンさんと監訳を行った『ウェルビーイングの設計論』もそのような著作で、インタフェース研究者のラファエル・カルヴォ氏とデザイナーのドリアン・ピーターズ氏が「Positive Computing」の考え方を提唱したものです。「コンピュータの誕生とともにひたすら生産性や効率性が追い求められた時代は終わり、これからはテクノロジーが、個人のウェルビーイングや社会全体の利益に貢献すべきだ」といった、これからのものづくりの考え方、そのための方法論が書かれています。

また、近年は、必ずしも幸福度は経済成長に比例するわけではないということが分かってきて、経済指標以外の“ものさし”として、ウェルビーイングについて問い直す機運が生まれたことも背景にあると思います。さらに今、日本では人口が減少し、高齢化も進んでいます。経済指標が向上することは見込めない中で、新しい発想のきっかけとしても、ウェルビーイングが必要とされています。

渡邊さんが監訳に携わった『ウェルビーイングの設計論 –人がよりよく生きるための情報技術』(原題:Positive Computing –Technology for Wellbeing and Human Potential/2017年、ビー・エヌ・エヌ)は、「テクノロジーは本当に人を幸せにするのか?」という問いから、これからのテクノロジーの在り方を考える一冊。『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために –その思想、実践、技術』(2020年、ビー・エヌ・エヌ)では、ウェルビーイングの考え方から、さらに日本的なウェルビーイングの在り方を探求している

ウェルビーイングとテクノロジーの在り方

松本:先ほど、テクノロジーがウェルビーイングに貢献すべきだという「Positive Computing」のお話も出ましたが、実社会では、未だテクノロジーは必ずしも私たちを幸せにしているとは言えないと感じます。

渡邊:個々人のウェルビーイングにおいて重要なのが、身近な他者や自分の属する社会への“信頼”や“希望”です。それぞれの人のウェルビーイングの状態は、時間とともに上がったり下がったり変化しますが、基本的に、ある社会の中で同時に全員のウェルビーイングが最大限に実現されることは難しい。

誰かがポジティブなら、別の誰かがネガティブになってしまうのが現実です。そんなとき、自分が一時的にネガティブになったとしても誰かのためになる行動をするという、利他行動を引き起こす源となるのが、周囲の人への信頼や、この社会は公正で安定したものだという社会への信頼です。さらに、「未来はもっと良くなるかもしれない」といった希望を持てるならば、利他行動はさらに起こりやすくなるでしょう。ところが、おっしゃる通り、今のテクノロジーはそういう信頼や希望をつくるためのシステムには必ずしもなっていません。

石田:具体的には、今のテクノロジーのどういったところが良くないのでしょうか?

渡邊:他者に対して信頼という態度が醸成されるには時間がかかります。例えば、人と会話をするにしても、同じ人間であることを前提に、相手の価値観をおもんぱかり、面と向かってきちんと対話する必要があります。しかし、現代のテクノロジーでは、自分でよく考える時間を取る間もなく、感情的に反応するようなコミュニケーションが行われています。瞬時に反応できてしまうテクノロジーによって、人が機械と同じようなスピードで動かされている。人もある意味、機械の一部のようになってしまっているのです。

サービス開発においても、人という存在を、反応を返すマシンのように扱うというか、そのようにモデル化していることも多いように感じます。人は、一定の時間をかけて自分で考え、行動する存在であるとともに、そもそも他者の思い通りに動かないものであるはずなのです。

石田:確かに、SNSでは、リアルの場なら言わないような誹謗中傷も多く、信頼をつくり合うものにはなっていませんね。テクノロジーが人間性を失わせているような側面があるのかもしれません。

渡邊:人間は機械と違って、自分で考える自律的な存在、かつ予想通りにはならない不確定な存在なのに、今のテクノロジーはそれを考慮したデザインになっていないことが多い。その不整合が、人への信頼や社会への信頼を育むきっかけを失わせているのではないかと思います。ゆっくり時間をかけることや、一見遠回りに思えること、偶然起こることといった、時間的に一直線でないことが今のテクノロジーには必要なのかもしれません。

石田:私たちは、商業施設がウェルビーイングにどう貢献できるかを考えているのですが、テクノロジーの活用方法はキーファクターになっていきそうです。

松本:お話を伺って、今後さらにテクノロジーが浸透する中で、商業施設の「リアルなコミュニティを育む場」としての価値は高まっていくのではないかと感じました。ウェルビーイングを実現するために、人や社会への信頼を回復できるような場になっていけたら理想的だと思います。

前編では、ウェルビーイングの定義や、今注目されている理由、ウェルビーイングとテクノロジーの在り方などについて、お伺いしました。後編では、リアルな場を持つ商業施設が、ウェルビーイングにどのように貢献できるのかを、渡邊さんと共に考えていきます。

構成・文 松葉紀子

渡邊淳司
NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部 上席特別研究員
1976年生まれ。2005年東京大学大学院 情報理工学系研究科 博士課程修了。博士(情報理工学)。人間の知覚特性を利用したインタフェース技術を開発、展示公開する中で、人間の感覚と環境との関係性を理論と応用の両面から研究している。専門は触覚情報学、ウェルビーイング論。
主著に、『情報を生み出す触覚の知性 –情報社会をいきるための感覚のリテラシー』(単著、毎日出版文化賞(自然科学部門)受賞)、『ウェルビーイングの設計論 –人がよりよく生きるための情報技術』(監訳)、『情報環世界 -身体とAIの間であそぶガイドブック』(共著)、『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために –その思想、実践、技術』(監修・共編著)、『見えないスポーツ図鑑』(共著)、『表現する認知科学』(単著)など。

上記ライター松本 阿礼
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社会の環境変化やデジタルシフトを背景に、商業施設の存在価値が問われる現在、未来の商業施設ラボでは、「買い物の場」に代わる商業施設の新たな存在価値を考えていきます。生活者の立場に立ち、未来の暮らしまで俯瞰する。識者へのインタビューや調査の結果などをお届けします。

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  • 村井 吉昭
    村井 吉昭 未来の商業施設ラボ プロジェクトリーダー / シニア ストラテジック プランナー

    2008年jeki入社。家庭用品や人材サービスなどのプランニングに従事した後、2010年より商業施設を担当。幅広い業態・施設のコミュニケーション戦略に携わる。ブランド戦略立案、顧客データ分析、新規開業・リニューアル戦略立案など、様々な業務に取り組んでいる。

  • 安川 由紀
    安川 由紀 駅消費研究センター研究員/未来の商業施設ラボ メンバー

    2007年jeki入社。コミュニケーション・プランニング局で鉄道や商業施設関連のプランニングに従事した後、2014年より駅消費研究センターに所属。現在は、駅利用者を中心とした生活者のインサイトや消費行動の研究に取り組んでいる。

  • 松本 阿礼
    松本 阿礼 駅消費研究センター研究員/Move Design Lab・未来の商業施設ラボ メンバー

    2009年jeki入社。プランニング局で駅の商業開発調査、営業局で駅ビルのコミュニケーションプランニングなどに従事した後、2015年より駅消費研究センターに所属。現在は、駅利用者を中心とした行動実態、インサイトに関する調査研究や、駅商業のコンセプト提案に取り組んでいる。

  • 篠原 りな
    篠原 りな 未来の商業施設ラボ メンバー / コミュニケーション プランナー

    2017年jeki入社。営業局で商業施設のプロモーションに従事した後、2年間出向。 若年向けファッションビルでの販促業務や、顧客分析やアプリ運営などのオムニサービス推進を担当した。 現在はコミュニケーション・プランニング局で化粧品などのプランニングに取り込んでいる。

  • 石田 真理子
    石田 真理子 未来の商業施設ラボ メンバー / コミュニケーション プランナー

    2019年jeki入社。コミュニケーション・プランニング局に配属。 食品、飲料などの生活関連商材、ホテル、住宅のプロモーション、コンセプトメイキングに携わるなど、プランニング業務に従事。

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2021年6月15日公開のPICK UP 駅消費研究センター VOL.39「地域や自然とつながる循環型レストラン「Maruta」(調布市)―社会問題に応える、生産緑地の開発モデルへ」について、6月17日より公開を中止しておりましたが、一部内容を修正のうえ、7月9日に再公開致しました。